















早朝6:30にGuadarajaraに着き、セントロを素通りして、Matias Geritzによるラテンアメリカ最初のパブリックアート、パハロを見に行く。車道にはみ出さんとして詰め寄る巨大な鳥。通りがかると必ず近くから見る事になるので、視点の変化に応じてその輪郭が劇的に変化していく。近景をもつモニュメントはとてもダイナミック。
途中で現代美術のグループSector Reformaによるパブリックアートを通りがかる。大通りの真ん中を走る歩道に、タイルによる丁寧なペーブメントの「$」のマークがさりげなく現れる。歩道を歩いている限りはこの記号の意味を認識できるほどの遠景を得ることはない。たくさんの人がその意味を意識しないまま「$」を踏みつけ、自転車が「$」の上を通り過ぎ、掃除人のおじさんが「$」に積もった塵を掃いていく。
ZapopanにあるKalachの小学校を見学。荒涼とした山肌のなかに突然美しく整備された芝生の庭が現れる。勾配をもった芝生が大きくはがれて、土に半分埋まった教室群が覗く。コンクリートの折板が緩やかに延びながら地面を持ち上げていて、地面の割け目に水平に細長い、ガラスと濃い色の木の立面が嵌まっている。ごつごつとした山を背景にして青々とした校庭は気持ちいいが、教室の奥は光から遠く、重々しい物質に圧迫され、空気は止まっている。洞窟のようで些か息苦しい空間だった。
その足でMexcaltitanへ。集落の教えで原広司が紹介した、かなり伝説的な村である。かつてアステカ人はここでご信託を受けて旅を始め、Tenochtitlanにたどり着き、出発地のような湖上の都市を作ったという。バスに5時間、タクシーに1時間弱のって、最後はボートで汽水に浮かぶマングローブの林を駆け抜けて、小さなその島にたどり着く。日没とともに艀に下りて中心に向かうと、島と同じく小さな建物と小さな道が、すこしづつのイレギュラーをもちながら、島と同じように同心円状に並んでいる。環状の街路が1周と東西南北を向いてソカロと外周の水辺をつなぐ十字架型の街路が4筋。泥棒というコンセプトの無いこの島では、窓もドアも開け放たれ、小さな街路の公共性と小さな部屋の私性が互いに流れ込みあっている。街路は廊下のようだし、部屋は道のニッチのようだ。道に生える熱帯植物は部屋の鉢植えのように存在しているし、家具は室内にあっても屋外にあってもその意味が変わることなはい。ファサードは存在してはいるものの、内外を峻別しない。なぜか多い若者は終点の無い円周の道を、話し、歌いながらぐるぐると何周も回っている。日はどっぷりと落ち、明るい月が上り、じきにあまりにも美しい朝がやってくる。生活は夜の間だけ止まり、おびただしい鳥の声と、太陽の再来とともに始まる。この島では形も行動もリズムも円環を描いていて、ミクロ・コスモスという言葉の意味を知ることになる。スケールの小さな、完結した場所で、ほとんど全てのものが関係しあっている。関係の密度の高い空間なので、のびやかな生活が充満してはいるが、通奏低音のような緊張感が全体を満たしている。